おもしろ体験博物館
江戸民具街道でじたる案内人”でじだるま”

Japanese Folk Art Museum
Edo Mingu Kaido Digital Guide
おもしろ体験博物館江戸民具街道の展示ガイド、ラジオがおもしろい!

Home展示品紹介(Exhibits) >真空管とあかりのお話(Vacuum Tubes and Light)

  11.通信の道具 Communication tools
真空管とあかりのお話
Vacuum Tubes and Light

 ●真空管とあかりのお話

 その昔ラジオの回路に使われた真空管とあかりがどうつながるのか読者の方々は疑問に思われていることでしょう。そもそも真空管と聞いてピンとこない方もおられるものと思います。この全く関係のないような真空管とあかりの間にはある共通点が存在するのです。今からそのお話を始めさせて頂きます。

 ●火のあかり

 私たちの身近な存在でありながら、あまり意識しないあかり。スイッチを入れれば昼夜を問わず部屋の中を明るくしてくれます。今ではあかりの光源はLED電球が主流になっていますが、古代から近代まであかりの光源は火であったのです。人々の生活の中で火は調理や暖房といった熱源として使われましたが、光源としても重要な役割を担ってきました。

 火を維持するには熱、酸素、可燃物が必要です。その昔、火打石で火をおこし、木材を燃やして灯りとしました。たいまつがその代表例です。そして人間はいつしか油や脂を灯すことを学び、様々なものから油脂を作るようになります。植物の実や種から油を搾り、19世紀になると捕鯨により鯨油を手に入れ、石油から灯油を作り出します。鉄の原料であるコークスを作るために石炭を乾留しますが、その時に発生するガスを使ってあかりにしました。そして電気による電灯へと発展していくのですが、蝋、植物油・鯨油・石油・ガス、電気のいずれも最初はあかりを灯すための探求から生み出されたものなのです。人間の歴史はあかりの歴史であったともいえるでしょう。

 19世紀になり石油、ガス、電気を使ったあかりの開発が急速に発展して市場争いとなり、最終的に電灯が主流となります。それでも昭和初期まで火を灯す石油ランプやろうそくが一般家庭で使われていました。

 
ろうそくのあかり

 ●電灯の発展

 最初の電気のあかりはエジソンが量産化に成功したフィラメント電球というイメージがあるかと思いますが、電気を使った最初のあかりはアーク灯(放電灯)なのです。対向に置いた2本のカーボン電極(炭を棒状にしたもの)に電気を流して電圧をかけると、棒の先端の隙間に電流が流れて高温となり光が放たれるのです。1808年にイギリス人の科学者ハンフリー・デービーがアーク灯の公開実験を行い、これが最初の電灯となります。電極間に発生した放電の光が対流によりアーチ(arch)を描いたことからアーク(arc)灯と呼ばれました。それはエジソンが白熱電球の開発に成功する1889年から70年以上も前のことでした。


アーク灯のあかり

 アーク灯を点灯するためには電気が必要であり、発電施設のない当時は電池を利用しました。実用可能な電池が開発されてアーク灯が普及するのは1870年代になってからになります。アーク灯は強い光を放ち、電源装置も高価であったため、一般家庭で使われることがなく、商業施設で使われていたガス灯がアーク灯に置き換えられていきました。そして1879年にエジソンが白熱電球の開発に成功して量産化が進むと、白熱電球が電灯の主流となっていきます。

 アーク灯が炭素化した棒を利用したのに対して、白熱電球は炭素化した線を使い、その線に電気を流すと過熱されて高温となり光を放ちます。糸や竹等の細い繊維を炭素化してフィラメントに利用したため、空気中で点灯するとあっという間に燃え尽きてしまいます。このためフィラメントをガラス管の中に入れて、菅中を真空にして酸素から遮断しました。これによりフィラメントの寿命が伸びたのです。


白熱電球のあかり

 白熱とは物が高温になると白色に近い光を出すという意味です。当時の炭素フィラメントの電球は輝度が低く赤っぽい色でしたが、金属性のフィラメントの登場でワット数が上がり、より白色の光へと近づいていきます。

 ●電灯用の発電所の登場

 エジソンは白熱電球の普及に力を入れており、1881年にアメリカのニューヨークに発電所を作り、電灯用の送電を開始します。石炭を燃やし蒸気機関を動かして発電しました。最初のエジソンの白熱電球は直流の仕様であり、送電も直流で行われましたが、交流での送電とは異なり、距離が離れた場所では電圧が下がって電灯が暗くなってしまいました。このような理由もあり送電は直流から交流へと変わっていくのです。日本では1887年に発電所が建設され、電灯用の送電が開始しました。

 ●エジソン効果

 エジソンが最初に開発した白熱電球の寿命は40時間程度で、京都の竹をフィラメントに使うことで1200時間まで点灯するようになりますが、寿命を如何に伸ばすかが大きな課題でした。白熱電球を点灯するとフィラメントから炭素が蒸発します。それがガラスの内面に付着して黒化し、暗くなって寿命となります。エジソンにとって電球の黒化を如何に防ぐかが研究課題でした。

 エジソンは電球のバルブの内側が黒化する現象を改善すべく研究を繰り返したのですが、電球の黒化が始まると片側のフィラメントの後側にフィラメントと同じ形の白い線が入ることに気づきます。エジソンの電球は当初直流で点灯する構造で、フィラメントにはプラス側とマイナス側があったのですが、この白い線が入る現象はプラス側だけに発生しました。エジソンは真空中においてはフィラメントから炭素の微粒子がマイナス側からプラス側の方向に放出されるのではないかとの仮説をたて、炭素の微粒子を集めるために電球の中にプレートを入れてそこにプラスの電圧をかけてみました。もし炭素の微粒子がプラス側に運ばれるのであれば、プラスの電荷を持つプレートに炭素の微粒子が集まり、それによりガラス管内壁の黒化が防げるのではと考えたのです。


エジソンの手書きのスケッチ

 残念ながらそのような改善効果は認められなかったのですが、そのプレートからフィラメントに対して電流が流れることに気づいたのです。エジソンはこの研究結果を元に二極管の電球を作り1883年に特許を取ります。ただしエジソンはそれを実用化するまでには至らなかったのです。

 

 ●真空管の登場

 このエジソン効果に目を付けたのがフレミングです。当時の電信ば有線を使ったモールス信号でしたが、これを無線化する研究が行われていました。フレミングは電流が一方向に流れる2極真空管を使って、受信した電波から信号を取り出すことに成功するのです。1904年に考案された2極の真空管はfleming valveと呼ばれました。そして1906年にド・フォレが3極真空管を発明します。これはフレミングの2極真空管の特許をかいくぐろうとして、フィラメント(陰極)とプレート(陽極)の間に格子状のグリッドと呼ばれる電圧調整用の電極を入れたものを開発したのですが、これが信号の増幅効果をもたらす結果となったのです。


フレミングの2極管

   

 ●真空管そして白熱電球の生産終了

  当初真空管は電球のような形をしていましたが、電極の形状等の改良により様々な形状のものが作られるようになります。そして戦前・戦後とラジオやテレビの回路には真空菅が使われ、電気機器産業を支えてきましたたが、半導体の普及により、日本では1970年代に生産が止まり一般家庭からその姿を消すことになります。

 エジソンが量産化したフィラメントの白熱電球もLED電球の普及の影響を受けて、一般家庭向け白熱電球の生産が2012年以降に終了し、白熱電球の時代にも一つの幕が下ります。

 真空管はオーディオアンプ用に海外で生産が行われています。やわらかな音が再生できると今でも愛好家が沢山います。フィラメント電球もしかり、やさしいあかりを求める愛好家達を楽しませてくれています。

簡単ではありますが、愛らしい球達が誕生した時のことを紹介させて頂きました。


次は「真空管のお話」になります。

    <<<前の展示品ページ            次の展示品ページ>>>   

トップページに戻る Retrun to the top page

おもしろ体験博物館江戸民具街道
神奈川県足柄上群中井町久所418
0465-81-5339
Japanese Folk Art Museum "Edo Mingu Kaido"
Address: 418 Kuzo, Nakai-machi, Ashigara-kamigun, Kanagawa-ken, Japan
Tel: 0465-81-5339