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人力車の歴史
The History of Jinrikisha
人力車(じんりきしゃ)は明治・大正・昭和初期に普及した人力で人を運ぶ乗り物。2つの輪を持つ車に乗客を乗せ車夫(しゃふ)が曳く。人力車には一人乗りと二人乗りがあるが一人乗りが圧倒的に多かった。また車夫は通常一人だが二人以上で引いたり、時には押したり、交代要員の車夫が併走したりすることもあったという。
日本で人力車と呼ばれるものが登場するのは明治初期になる。人力車は駕籠より速く、馬に乗るよりも安かったため人気の交通手段になった。
人力車は一般的には日本独自の発明と考えられているが、17-18世紀のフランスにはビネグレットという二輪車があり、イギリスにもセダン・カートと呼ばれる人を運ぶ乗り物があった。17世紀のオランダの作家アーノルドゥス・モンタヌスが残した日本に関する本の中の挿絵に人力車に乗る太閤の絵が描かれており、17世紀の安土桃山時代時代にすでに二輪の人力車があったことになる。
日本では江戸時代まで輸送手段としての車は使用を制限されていた。江戸末期になると規制緩和が進み、東海道の一部で数人の旅人を大八車に載せ始めた。アーネスト・サトウも1867年に桑名付近で目にしている。これは数人の乗合客を乗せる乗合型の車であったが乗り心地が悪く、俥夫も多くを必要とし、政府に重税を課せられことから明治20年代には乗合型の車は姿を消したといわれている。
1870年(明治3年3月22日)に和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の3名が人力車の製造・営業を東京府に出願し、3月24日に許可を得ていることから、この3名が人力車の発明者だといわれている。 彼らは日本橋高札場付近を拠点に営業を開始したが、客は恥ずかしがって乗らなかった。そこで親類や家族を客に仕立て、近所中を引いて回ったところ、段々客もついてくるようになった。日本橋を宣伝場所に用いた効果は成功し、次第に利用客も増え、わずか3-4年余りの間に人力車は目を見張るようなスピードで普及した。新規加入者は彼らの承諾を得なければ人力車が買えず、営業も出来なかったというが、当時特許制度が十分に確立しておらず、彼らの権利は数年内に失効してしまったという。
人力車の復旧に伴い1872年までに東京市内にあった1万の籠は姿を消し、人力車が日本の代表的な公共輸送機関に取って代わった。1876年(明治9年)には東京府内で2万5038台の人力車があったと記録されており、19世紀末には20万台を越す人力車が日本にあったという。
当初人力車の形には様々なものがあり、腰掛型、坐型、二輪、三輪、四輪、ちりとり型、だるま型など、多種多様だったが、1875年(明治8年)頃に現在の人力車に近い形になる。秋葉大助が西洋馬車にヒントを得て改良した舟型が祖型となったと言われている。1907年(明治40年)代になると木製の車輪はゴム輪へと代わっていく。
人力車の俥夫には、政治家や医師などのお抱え俥夫、車宿に雇われる俥夫、人力車駐車場を拠点とて組織された俥夫集団、そして流しの俥夫がいた。駕籠や馬に代わり全国に普及した人力車であったが、鉄道や自動車の発達によりやがて衰退していった。
くるまや日本橋ホームページ人力車の歴史
http://www.kurumayanihonbashi.com/rekishi/index.html
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/ukiyo11.htm
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