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江戸民具街道デジタル案内人お薦めの中井町観光スポット
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Home >中井町あれやこれや(NakaiTown This & That!) >寛永通宝 藤沢銭(Kaneitsuho Coins)
江戸時代に藤沢で作られていた寛永通宝
Coins made in Fujisawa during the Edo Period!
江戸民具街道がある中井町久所の北側には藤沢という地域がある。江戸時代には藤沢村と呼ばれ、村高は元禄のころ197石余、天保のころ212石余あり、寛永3年(1750年)より、小田原宿の助郷を勤めたといわれている。
江戸民具街道の前を流れる中村川西側の藤沢山を挟み、藤沢川が流れる。その昔川の両岸に初夏のころ藤の花が咲きほこり、地形的に沢になったのではないかという。高座藤沢(現藤沢市)と区別するため、地元の人は高座藤沢を江戸藤沢と呼んでいたといわれている。(図1:中井町概略図)
図1:中井町概略図
この中村郷の藤沢には鋳銭座があり、銅銭の寛永通宝が鋳造されたといわれている。江戸中期の元文2年(1737年)のころになる。下記写真は藤沢銭及び藤沢・吉田島銭類と呼ばれる新寛永通宝になる。文字が小さく、高い鋳造技術が必要だといわれる。孔の小さいほう(右側)が藤沢銭と呼ばれる新寛永通宝になる。長崎屋不旧が書いた書体で、不旧手と呼ばれる。左側が古くから藤沢・吉田島銭類と呼ばれている新寛永通宝になる。
図2:藤沢・吉田島銭類(左)、藤沢銭(右)
江戸民具街道ではこの藤沢銭について調査することにした。以下その調査結果を記す。
1. 古銭確認作業
まずは江戸民具街道で展示している古銭の束の確認から始めた。これは富山県にあった先祖の蔵を解体した時に出てきたもの。蔵の中には江戸末期の箪笥等が多数あり、その中にあった。藤沢銭の調査をするにあたり、古銭の基礎知識を習得するために選別をしてみたが、果たして、この中に藤沢・吉田島銭が一枚入っていた。藤沢銭が日本中に流通していたことの裏付けともいえる。
図3:古銭選別作業スライドショー
2.藤沢銭の種類の確認
藤沢と名の付く銭には「藤沢銭」、「縮字(藤沢・吉田島銭)」、「異永(藤沢・吉田島銭)」の3種類がある。上記スライドショーで紹介した1668年以降に造られた新寛永通宝になる。以下昭和32年万国貨幣洋行発行の小川吉儀著「新寛永銭鑑識と手引き」を参照する。
銭種類 |
藤沢銭 (俗称「不旧手」) |
縮字 (相模国藤沢及吉田島鋳) |
異永 (相模国藤沢及吉田島鋳) |
鋳造元期 | 元文期 | 元文期 | 元文期 |
鋳造初年月 | 元文二年 | 元文四年十二月 | 元文四年十二月 |
鋳造初西暦 | 1737年 | 1739年 | 1739年 |
小川吉儀氏解説 | 「藤譜」に元文二年相模国足柄郡藤沢村所鋳とある。 「銭録」には藤譜の和歌山銭を充て、又一説には享保十万坪の一糸となす者もあるが、銅色紫褐・銭風自から別種なるを以って、本欄に掲ぐ、他日の研鑽に俟つ銭である。 |
本銭を藤沢銭と断定はし難いが、明確なる文献が提出される迄暫定的にも先師の説に従うこととする。 藤貞幹「寛永銭譜」では旧和歌山、近藤正斎「銭録」では紀州或は吉田島鋳とされていた物である。 元文四年十二月鋳造 |
藤沢も、吉田島も同じ足柄郡である。これも寛永泉譜前編に、元文和歌山の異永としてある。永字が社の千木の様になっている。別名千木永と言う。又別に永の末画の欠画した物がある。 |
拓本 |
図4:藤沢銭 |
図5:縮字 |
図6:異永 |
上記解説にある通り、鋳造地に関しては諸説様々あることが伺えるが、藤沢銭を相模国藤沢村鋳と明確に記しているのが藤貞幹著「寛永泉譜」になる。
(藤貞幹(とう
ていかん)、享保17年6月23日(1732年8月13日) - 寛政9年8月19日( 1797年10月8日))
「寛永泉譜」は国会図書館に収蔵されデジタル書籍として公開されており、3つの写本には藤沢銭が下記図7のように記されている。
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図7:藤貞幹著「寛永泉譜」写本3種(国会図書館デジタル書籍より)
大正時代に発行された鋳貨図録にも藤澤銭が掲載されており、「相模 藤澤 元文二年 須藤平蔵 吉田島村ニテモ鋳ルト云フ」と書かれている。
3. 藤沢銭の銭座跡地を調査された方々
①大正14年9月 文学士 石野 瑛氏
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大正14年発行の雑誌「歴史地理」第46巻に「湮滅せる相模の鋳銭座遺址」と題した訪問記が掲載されている。以下要約を記す。
図8:大正14年発行の雑誌「歴史地理」第46巻表紙
「湮滅せる相模の鋳銭座遺址」
7月24日~25日、秦野町から軽便鉄道を下りて井ノ口に至り、煙草畑を抜け山を越え藤沢に至る。相模の藤沢といえば誰しも東海道筋の藤沢を思うが、足柄上郡の藤沢はあまり気づかぬ。それも其の筈、ここは中井村の比奈窪(ひなくぼ)、松本、雑色(ぞうしき)、鴨沢、古怒田(こぬた)、半分形(はぶがた)、田中、遠藤、北田、久所(くぞ)、藤沢、岩倉、境、境別所、井ノ口の十五字中の一字で、民は僅かに36戸の一部落に過ぎないのである。しかも銭座に関する史料は湮滅(いんめつ)して全く不明の有様である。
私が井ノ口から藤沢に入る峠を下ろうとすると小学校の教師らしい人に出会った。鋳銭座跡に関する話をして尋ねてみたが、「そんなことは知らない、前の山を越した向こうに中村小学校という学校があり、そこに村の歴史を調べている人がいるから、その先生に聴いてみるのがよかろう」とのことであった。夏の強い日差しの中で汗だくになりながらも言われた通りに山を越えて比奈窪に出て半分形にある中村小学校に向かった。そして学校の手前数十間のところでまた一人の教師に出会った。相原三四作君という。再度鋳銭座跡について話してみたが、「自分は藤沢のものだが、そんなことは聞いたことがない、一緒に学校まで行こう」と言ってついて来られた。
学校へ来てみると校長は知友磯崎學平君であった。歴史に堪能な先生はもう帰られたとのことで、相原君がその教師の家である五所宮の八幡社まで案内してくれた。その教師は中井村北田御塔坂にある五輪塔が文覚上人と関係がないか、久所の城ノ内という所は古い砦跡ではなかったかとか、鴨沢の砦跡や同所の鬼王童三郎墓のことなどを語られたのだが、藤沢の鋳銭座については知らないとのことであった。
辞して丘陵を回り藤沢へと来た。相原君はずっと附いて来られたが、ここが自分の家だから寄って茶でも飲んでいけと言われた。日も暮れたので帰路を急いだが再三の勧めに立ち寄った。相原君が奥の部屋で休んでおられる祖父の林太郎氏に声をかけると80近い老人は着物に着替えて出てこられた。「自分も若い時は参勤交代の大名をお供して箱根八里を上下したものだが、年を取りまして、特に今年はめっきり弱りました」と言いながら、「お話しのような銭をこの土地で鋳ったことは聴きませぬが、名主をしていた父市兵衛の弟である私の叔父の喜八が上州の女を妻として二女一男と共に江戸の小石川仲冨坂町家主久蔵の家に住み、鋳銭座に勤めておりまして、私も子供の時分にその叔父から枝銭の様なものを見せてもらいました。」という銭座関係の話に引き込まれ、それならば数世代前の先祖がこの土地で鋳銭に従事した因縁があるに違いないという見地から質問を進めていきますと、「そういえば裏の畑から一面に金屎(かなくそ)が出ます。」というのです。それでは直ぐにその現場を掘ってみたいと言うと、隣家相原廣吉氏宅裏あたりにかけて発掘してみたのですが、沢山の金屎が出てきたのでした。こうした偶然の発見に私は非常な喜びを禁じえませんでしたが、時すでに黄昏時のため宿泊を勧められたのですが、帰路につき井ノ口から最後の自動車で一旦引き上げたのでした。
後日相原三四作君が来宅され、調査をお願いした「鋳貨図録」所載の鋳銭受負者「須藤平蔵」とある須藤姓が同村鴨沢にあることや、その他ニ三の報告を受けたのです。8月23日私は再調査を企てました。午前5時26分に横浜を出発して二の宮で下車し、軽便鉄道で上井ノ口に至り、前回と同じ道を通って藤沢にいき、相原氏宅裏手の金屎の出る所や、その上の雑木林の中にある稲荷の祠(ほこら)を見て、そこから二町ばかり東の成川學左衛門(維新当時の名主)という人の家に行って古文書や遺物類を見せて貰いたいと頼んだのですが、未亡人が文書類は先頃襖の下張りに使ったり屑屋に売ったりしたということで、大変残念でありました。それから五所の宮で食事をし、半分形、雑色を経て鴨沢に至り、須藤正夫氏宅を訪れて古文書の一部を見せてもらい再来を約束して帰路を急いだのです。
「鋳貨図録」には「吉田島村にても鋳る」とあるから足柄上郡吉田島村の踏査も企てました。8月30日朝横浜を出て松田に下車、直ちに郡長田中銘雄氏の公社を訪ね、又郡役所の草柳良英氏から中村舜次郎翁や吉田島村大長寺住職などに尋ねたらよかろうということなどを聴いて、まず中村翁を尋ねたのです。翁(おきな)は松田惣領の人で弘化4年8月5日の出生で今年79歳。翁は元治元年18歳にして松田惣領百姓代役を申し付けられ、翌年組頭役となり、明治5年の頃に「足柄新聞」を刊行し、戸長、小區町、大區町を経て、明治10年初めて足柄上郡長となり、その後衆議院議員として活動され後今は静かに隠居されているのでした。吉田島の銭座について尋ねたところ翁は吉田島には銭座という小字(こあざ)名があることなどを話され、また式内に古社寒田神社に関することなどを聴いて同家を辞し、吉田島に向かったのです。
寒田神社に詣で十文字橋を渡り数町にして吉田島村に至り大長寺住職大場賢秀氏を訪ねました。私は先ず銭座なる小字について聞いてみたのですが、大場氏はそれは耳にしているが未だ現場を知らないとのことで村図を調べたのですが、そのような字名は記入されていませんでした。このため氏は親切にも村の旧家や古老数軒を案内してくれて、関係資料の所在を知り又銭座の現場をも確かめることができたのでありました。即ち銭座の地は大文字橋より約一町計り下手なる今避病院のある付近にて長年月の間に数回の洪水のため大部は河原となってしまったのです。大場氏と別れ再び田中郡長と足柄の史談を交わし最終列車で帰浜しました。踏査に関し種々便宜を頂いた田中郡長、中村翁、大場住職、井上氏等に深く感謝の意を表します。この稿は藤沢、吉田島両鋳銭遺址の探査記のみに止め、改めて一文を草して見たいと思うし、またこの地方の先史時代から以降各時代の史跡についても別稿を以って記述したいと考えています。(大正14年9月9日)
②昭和50年12月及び51年3月 古銭研究家 川田
晋一氏
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平成15年に川田
晋一氏が喜寿内祝いで限定出版された「豊泉小論集」に「元文期吉田島・藤沢遺蹟の再確認」を掲載し、昭和50年の吉田島・藤沢訪問記録を掲載された。以下その要約を記す。
図9:豊泉小論集表紙
「元文期吉田島・藤沢遺蹟の再確認」
(1)吉田島銭銭座遺跡
昭和50年12月小田原での所用が早く終わったので、石野氏発表のメモを頼りに小田急電鉄新松田駅で下車、吉田島は神奈川県足柄上郡開成町の一角であることを事前に地図で確認しておりました。細長い町並みを西へ抜けると酒匂川にかかる十文字橋に達します。右手に丹沢山塊を望み風光明媚なところ、対岸に箱根外輪山を背負うように開成町があります。石野氏のメモに吉田島大長寺住職その他の人の協力で酒匂川河原の銭座跡を確認したとあるからで、まず大長寺を探すべく開成町側に渡りました。程なく蛇行する小道から高い瓦が望まれ、近づくとまさしく寺であり山門をくぐると、そこはまさしく大長寺であり、参道にいた住職にお会いすることができました。本堂は古くはないものの威容があり小田原大久保家ゆかりの寺院とのことでした。
銭座遺跡について尋ねると、石野氏がお会いしたのは先々代の住職のおりで、自分よりも詳しい方を紹介しましょうと、本堂横手の青木さん宅を気軽にご紹介下さりました。所用の帰路で手土産の一つもないことに内心心配しながら、折角の機会だと一見商屋風にも見える青木さん宅を訪問しました。お年の頃60半ば過ぎとお見受けするご主人の青木さんが出てこられ、来意を告げると実に気さくに差布団とお茶を命じて下され、「私の家は当地ではかなり古く、私は郷土史関係が好きで、吉田島を始め付近の旧跡を調べており、郷土史の関係から古銭も少々集めています。」と紙に丁寧に包んだ穴あき銭を拝見しつつ、後北条氏時代の当地あたりの通過のことなど、百年の知己のように話がはずんだのでした。
その後青木さんが「貴方が来られた目的の吉田島銭座跡は私の先祖が持っていた土地でした。石野さんが調べに来られたことも知っています。これからご案内しましょう。」と言われた時には正に驚きで、心中雀踊りするものがありましたが、気持ちを押さえつつも足取りは自然と軽く、道々銭座遺跡が青木家の新田であったものが酒匂川の度々の洪水で今の十文字橋付近に地所替えになったことを伺い、やがて酒匂川土手上に到着しました。青木さんは土手下酒匂川の流れが洗う約2~300坪位の瓦を指さし「ほれ、ここですよ。」と。50年の昔、石野氏が「....今避病院のあるあたり....」というところであろうと思うと感慨一しおりででありました。酒匂川は名うての荒川で川筋の変容著しいこと等、郷土を愛する温かいお人柄のにじむお話しに土手に立ち尽くし聞きほれた次第です。酒匂川の流れは無心、荒れた河原は何も語ってくれませんでしたが、今日青木さんにお目にかかれたことが銭座遺跡の再確認ともども大きな収穫でありました。今後共情報交換をお約束し心からお礼を述べてお別れする長い土手の上で、青木さんが見送って下さる姿が印象的でありました。
図10:川田晋一氏手書き銭座遺跡地図(吉田島)
(2)藤沢銭座遺跡
藤沢銭座は石野氏が東海道藤沢をくまなく調査されて遂に判らず、現足柄上郡中井町藤沢をつきとめられたと伺っています。ここの再確認もかねて計画しつつ、結局昭和51年3月始めの日曜日、厚木方面への所用の帰り、昼過ぎにかかりましたが思案の末決行することにしました。石野氏は大正14年7月の暑さの中を東海道線二宮駅から当時の軽便鉄道で中井地区に入られたのですが、私は初夏のような3月に小田急電鉄大秦野駅で下車、駅前の相模中央バスの案内所で藤沢行を尋ねると、ここでもわざわざ「中井の藤沢ですか。」と聞いてくれたのでそう答えると、井ノ口経由比奈窪行きを教えてくれました。
井口から右折すると低い山というよりは丘陵といった感じの起伏の連なる間を縫うように大秦野駅から約25分で道端にバス停標識一つという藤沢に到着。右側は崖、左側は浅い谷といった感じで人家が散見されたのでバス停脇の小道を下りることにしました。下りてみると回りの丘陵の雑木は芽吹く前の温かい色に満ち、村のそこここに白梅が咲いており、牛の鳴き声ものどかに、どこからか流れるのか小川が一筋村を横断するといった桃源郷の風情がありました。
石野氏の報告では藤沢の相原氏と成川氏の名前が見えるのみで村のどことも判らぬまま小道をバス停から約300~400m行くうちに立派な構えのお宅が相原姓であり、声をかけると老婦人が出てこられて「銭座なら家の一軒手前から山へ上ってすぐ右の成川さんのお宅ですよ。」とあまりにもあっけなく教えて下され、一瞬信じられない気持ちでしたが、お礼を述べて一旦戻り、二又道を山へ上がる坂道をわずかに上がった右側に広い敷地のお宅が見えたので中へ入ると突然牛の鳴き声がひときわ大きく歓迎してくれて驚いた次第。案内を乞いましたが応える声もなく、主家に回り玄関先で再び声をかけても応答なく、お留守かなとがっかりしていたところ、納屋の裏あたりでコツコツと音がするのであつかましく山側へ回ると、もう古希も過ぎたと思しい老人が一人太い木の枝を鉈で削っておりました。挨拶をし銭座跡を訪ねている旨を告げると、まさしくそれは当家の敷地であるとの答えでした。
当家は現当主成川勝寿氏で老人は成川信明氏であります。「石野さんが来られた時のことは私もよく知っている。私は小さいときから仕事のことや村のことに興味があり、昔のことはよく覚えている。銭座の跡らしいと分かったのは大正末頃屋敷の敷地を広げるのに山を崩したらルツボを見つけ、回りに木炭があった。これらは後にどこかえやってしまった。敷地の中からは沢山金クソが出る。前に出たものはよけて置いたが学生やらどこやらの先生が来て皆持って行ってしまった。」とこのように語られ、ルツボの出たところを尋ねると、老人が仕事をしていた僅か5~6m脇の崖の斜面に青い石を置いてあるあたりだといわれ、石の上の小枝にシメ縄代わりのように藁が結ばれておりました。「以前家に病人が出てなかなか治らず、行者に見てもらったところルツボの出たところへ金山様をお参りせよということで、そのあたりにこの青い石を置き、金山様としてお祀りし、昔は毎月8日に近所の子供に配りものをしたことを覚えている。」という話を語ってくれました。
また成川氏は来るときにみた小川が時々氾濫したこと、以前は有名な秦野煙草を作っていたが今は成川牧場として畜産をやっていることなどを語られ、単に老人の独り言でなく、この方もまたご自身の仕事を愛し、郷土を愛する方であることが言葉の端々に伺い知ることができました。成川亭は約500坪程もありましょうか。半分はゆるい斜面のままでまだ金クソ(ノロ)が出るとのことで、ノロの検討では溶解金属の材質も推察できるので、今後出てきたおりはぜひ保存してくださるようお願いしておきました。なお同家には資料らしいものは何もないとのことですが、地元中井町では史跡として指定するようなお話も伺いました。
夕景近く帰路につくべくお礼を述べると、老人は腰を伸ばし土地なまりで「折角遠くから来てくれたのによう、何もお構いもできねえでほんとうに済まなかったよう。」と挨拶されたのにはじいんと来るものがありました。門口を去るとき、またも老人が振るう鉈の音がコツコツと聞こえていました。
両銭座遺跡の再認識にあたり先覚の方のご苦労が偲ばれ、そのお力で円滑に訪ねることができたことは望外の喜びで、しかも青木さん、成川老と心から郷土と仕事を愛するお二人にお逢いできたことが大きな力となったことは申すまでもありません。冒頭に申し上げた通り鋳銭に関する文献、現物など何一つなく残念でしたが現地の地理的要素など得るところがあり、今後は請負人須藤家をお訪ねするなど少しでも解明に近づきたいと思います。
図11:川田晋一氏手書き銭座遺跡地図(藤沢)
③昭和45年 郷土歴史研究家
竹見龍雄氏
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中井町の歴史を研究された竹見龍雄氏著「中村郷(橘・中井の歴史)」の第27章に藤沢鋳銭座考について書かれている。故竹見氏によれば銅を鋳る壺を発掘し、中井中学校に預けてあるとのこと。川田晋一氏が藤沢を訪問する前のことにて、その話が伝わっていれば異なる展開・進展があったかもしれない。
図12:中村郷(橘・中井の歴史)表紙
「藤沢鋳銭座考
江戸中期元文二年(1737年)幕府は藤沢に鋳銭座を設けて寛永通宝を鋳らしたが、唯藤沢とある所から多くの学者先生は藤沢市の何処かであろうとして探策して居られる。故石野先生はお若い頃からこの中村郷の藤沢ではなかろうかとして探して居られた。先年筆者が中井町を中井町有志の応援を得て調査した際、藤沢の成川延秋家屋敷内にフイゴの神を祀った金山(かなやま)さんの跡が榊を植えて残って居り、残滓(かなくそ)があたり一面から出土するので石野先生や県の関係方面に報告をして、先生方の御調査を願った。而かしその時は先生方も残滓が鉄の残滓の為、疑問視して問題にされなかった。
筆者はその後中井町の方々の御協力を得て銅を鋳る壺を終に発堀して、その時中井中学校にお預けしてあるが尚今後詳しく調査いたしたい。
4.現在の藤沢と吉田島の銭座跡の現状
先人の方々が調査されてきた後、銭座遺跡と推定される場所は今現在どうなっているのであろうか。
中井町藤沢及び成川亭
前述のように間接的な証拠や逸話等が残っているにも関わらず、中井町藤沢で鋳銭が行われていたということを明確に示す直接的な物証が見つかっていない状況にある。故竹見氏の記述によれば成川亭から出土した金クソは、鉄の金クソであったとのことから疑問視されてしまったとあるものの、銅を鋳る壺が見つかっているとのことから銭座跡であった可能性は十分に残っているものと考えられる。
現在の成川亭のご主人は川田晋一氏がお会いになった成川信明氏のお孫さんである成川寿一郎氏である。2017年10月成川さんのお宅を訪問し銭座について尋ねてみたが、状況に変わりはなかった。成川さんは「金クソは大学の学生や先生方がみんな持って行ってしまったが、納屋のダンボールの中にいくつか残っているかもしれない。」とおもむろに納屋に入ると土丹の塊を2つ見つけて持って来てくれた。残念ながら一つはまったくの土の塊であったが、もう一つは金クソらしきものが顔を出していた。「いいよ、持っていきなよー。」と気さくな返事を受けて、その土丹を一つ戴いてきた。事前に用意しておいた手土産(二宮の地元和菓子であるガラスのうさぎまんじゅう)をお渡しし、お礼を述べて帰宅した次第。金山様は山の土手斜面にあるので梯子がないと登れないとのことから、後日天気の良い時に再度訪問して拝見させて頂きたいと思う。
頂いた金クソの土丹は、これはこれで貴重なもののため、土を洗い流すことをせずに、このままの状態で保存した方が良いのではないかと考えている。
図13(左)成川宅左手にある牛小屋、及び図14(右)成川宅右手にある納屋(裏山斜面に金山様がある)
図15:金クソが顔を出す土丹
図16:こちらは元中井町教育委員の方に見せていただいた金クソ
吉田島銭座跡
開成町で発行している郷土資料には以下のように記載されている。
「江戸時代の基本通過は、金、銀、銅の三貨でした。日本の貨幣は銭から始まりましたから、一切の物価は銭を標準として定められてきましたが、中世後期より少量で価値の高い金と銀が加わり、それが貨幣の主体となる及んで、品位(質)の異なる貨幣の同一市場での円滑な流通を図るため、夫々の貨幣の間に相場を建てて調整することになりました。
寛永年代(1624-1643)より元禄(1688-1703)頃までは、金・銀の相場に変化はなく、銅の産出も豊富でしたから、銭安のまま推移異しましたが、元禄以降金・銀の改鋳による品質の低下と、産銅の減少による地金の不足は、銭貨の高騰になりました。銭も一種の物ですから、投機の対象になります。利に聡い商人がこれを見逃すわけがありません。密かに隠匿して銭貨の高騰を待ちましたから、市場の流通貨は益々不足して、庶民の苦労となりました。
堪り兼ねた幕府は、銭貨の大改鋳により他に方法がないとの結論に達しましたが、幕府に増鋳の能力がないので、元文元年(1736)五月、一般から鋳銭希望者を全国的に公募しました。これに応募して認可されたのが須藤平蔵(出自・経歴不明)でした。元文4年(1739)許可が下りたので、中井町藤沢と吉田島(九十間堤防の小田急鉄橋下の河原辺り)で鋳銭にかかりました。
これには、代官蓑笠之助の示唆が大きかったようですが、予定していた玄倉銅山(※丹沢山)の産出量が少なく、成績は不良のようでした。「銭禄」は「同郡吉田島にても鋳しと云、至って軽量なりといへり、その銭いまだ見ず」と失敗を匂わせています。」
図17:吉田島銭座跡 (酒匂川サイクリングコース脇)
5.大岡越前の日記の検証
開成町の調査によれば大岡越前の日記に蓑笠之介の報告内容が書かれているとのこと。蓑笠之介は享保14年に大岡越前に仕え、享保17年には相模国の33,560石の地を支配していた。元文4年に代官となり、大岡支配下の三大代官の一人になる。大岡越前の元文5年から日記には(残念ながら元文4年の日記は紛失)蓑笠之介の酒匂川流域の整備状況や農村からの申し出等の報告内容が記されており、その中に銅銭の鋳造や、玄倉山での銅の産出状況に関する記述をところどころに見ることができる。蓑笠之介が酒匂川流域を治めていたことからすれば大岡日記にあるのは吉田島で作られた銅銭ということになるであろう。以下「大岡越前守忠相日記」からの抜粋要約を記す。
●元文5年11月: 先日述べた鋳銭の件については銅が段々と掘り出されているが、水が深く取ることができず鋳銭もそれ故遅れたが、ようやく鋳銭が十貫少々出来、見せ銭通用銭を差し出した。但し水深くしかも掘りかねるため、山下を堀り、水をはかせ、只今掘り進めている。絵図入りの笠之介の書状と手本銭と通用銭を一袋に入れてお届けする。
●寛保2年5月:笠之介の酒匂川での見分の次第、玄倉山銅山の水抜きに関する書状一通と絵図三枚。
●寛保2年7月:笠之介より玄倉山の銅鉱脈を掘り当てたとの報告あり。絵図が一枚ある書状一通が届く。
●寛保2年10月:笠之介代官の相州銅山の件、絃筋細く外を掘ったとの書状が届く。
●寛保3年4月:笠之介代官の相州銅山の水抜きの件、笠之介が見分の上、石切を入れて、掘りぬいたとのこと。
●寛保3年10月:笠之介より酒匂川と銅山の件で書状が届く。水敷が直り白金が出た。
●寛保3年12月:笠之介より相州足柄郡玄倉山銅山の件、絃筋を掘り当てたとの書状一通と絵図一枚が届く。
●延享元年3月:笠之介より相州足柄郡玄倉山銅山の件で書状が三通届く。
●延享元年5月:銅山の件、鉱脈切り少なく銅が出ず。
●享保元年6月:先日申し上げた相州玄倉山銅山の借金の上納は当年は見合わせる。
その後大岡越前は酒匂川領域の管轄から外れたため、蓑笠之介に関する記述は日記には登場しないようである。上記内容からすれば元文5年に通用銭という言葉が登場するため、鋳銭が既に始まっていたことになるが、記述によればようやく十貫少々ができたと報告されている。一貫が千匁=一文の銅銭が千枚とすれば銅銭一万枚分、小判にして2両半程度ということなる。見本銭と通用銭の両方を差し出したと書かれているが見本銭とは母銭(通用銭を生産するため鋳型として使う母銭)のことであろうか。母銭と通用銭の両方を差し出して、品質上問題がないこと、量産の準備が整ったということを述べているのではないかと思われる。しかしながら玄倉銅山での銅山鉱脈掘り当てが寛保2年(1742年)そして銅の算出が少なくなったのが延享元年(1744年)とのことから、玄倉銅山で銅の産出ができたのはこの間2年程度ということになる。どれくらいの量の銅材を調達できたのかも不明である。
6.疑問点の確認
疑問点その1:量産化の時期
大岡越前の記録では玄倉銅山で取れた銅材を使い、最初の銅銭1万枚ができたのが元文5年11月とある。返して考えれば、それ以前は量産化までたどり着いていなかったと推測される。蓑笠之介が酒匂川流域を治めていたことからすれば大岡日記にあるのは吉田島で作られた銅銭ということになるであろう。しかしながら小川吉儀著「新寛永銭鑑識と手引き」によれば藤澤・吉田島銭類と呼ばれる銅銭が鋳造されたのは元文4年12月とある。大岡日記にある量産化報告の約1年前ということなる。その頃から準備が進められた可能性は考えられるが、試作期間が記録として残ることには違和感を感じる。
疑問点その2:銅山との関わり
「享保11年(1726年)からは日本全国で民間による銅銭の民鋳が増えた。京都七条銭銭座(マ頭通の不旧手)、江戸深川十万坪銭座、石巻で作られた享保仙台銭、大阪難波銭等がある。ただし享保期から元文期にかけての鋳銭原料銅の不足ははげしかったようで、幕府は元文元年に大阪に銅座をおき、大阪の銅吹き屋以外で銅を扱うことを禁止して銅の統制を計った。(※大岡日記には違反者が後を絶たず罰する規制強化が記されている。)元文期には銅材の不足と銭の相場高により各地で鋳銭が行われた。元文期の十万坪銭、伏見銭があり、後者は享保期の京都七条銭と同じマ頭通の不旧手になる。そして小梅銭、日光銭、元文亀戸銭、日光銭、江戸深川平野新田での鋳銭が続く。このように各地で鋳銭がさかんに行われるようになり、産銅が伴わなくなり、元文4年~5年にかけては各銭座で鉄銭が鋳造されるようになる。」(瀬戸浩平著”古銭その鑑賞と収集”より)
小川吉儀著「新寛永銭鑑識と手引き」にあるとおり、藤沢銭及び藤沢・吉田島銭類についてはその出所が定まっておらず、和歌山銭や十万坪銭ではないかともいわれており、そのため「他日の研鑽に俟つ銭である」と書かれている。その存在は謎に包まれている。
他の銭座は銅山との関わりがある程度明確になっているようであるが、藤沢銭に関しては元文2年当時周辺で銅山の開発が行われた記録が見つからない。中井町藤沢から比較的近くにある渋沢の銅山が開発されたのは昭和初期になってからである。全国的に銅材が不足している時期にあっては、銅材が入手できなければ銅銭の鋳造ができないことになる。
疑問点その3:古銭の残存数
藤沢銭と藤沢・吉田島銭類の評価額は数百円、買取となれば0円である。(古銭選別作業スライドショー参照のこと。)それは七条銭銭座(マ頭通の不旧手)、江戸深川十万坪銭座、石巻で作られた享保仙台銭、大阪難波銭と同等の評価額であり、それだけ数が多いということになる。(存在数が多ければ必然的に評価額は下がる。)歴史に名を残す銭座に匹敵するだけの鋳銭が行われたのであれば、記録として明確に残るはずであるが、中井町藤沢に関しては地元の方も全く知らず、古文書も残っていない。ところが藤貞幹著「寛永泉譜」には相模国藤沢村と明確に書かれている。これ程の謎はないものと思われ、古銭を調査する方々が興味を抱くのも当然のことであろう。
7.須藤家訪問
石野氏の「湮滅せる相模の鋳銭座遺址」の中で「須藤正夫氏宅を訪れて古文書の一部を見せてもらい再来を約束して帰路を急いだのです。」と書かれている。元教育委員の方より中井町鴨沢の須藤家が吉田島で鋳銭をしたといわれる請負人”須藤平蔵”の末裔ではないかとのことであった。須藤家には小田原城二ノ丸の幸田門があり、中井町の文化財に指定されている。この門は明治四年の廃藩置県により小田原城が廃城になった際、民間に払い下げられた。当時須藤家の当主であった須藤米三郎氏が購入。当時豪農であった須藤家はこの門を解体せずにイカダに載せて押切まで運び、鴨沢地区の村人総出で運んだといわれている。
図18:須藤家にある幸田門
2018年2月22日K氏と共に須藤家を訪問した。石野氏が御覧になられたという古文書は果たして見ることができるのであろうか?と内心心配しながら手土産を用意し、元当主のお母さまにお会いした。早速古文書のこと、銭座のことについてお聞きしたが、2棟あった蔵はどちらも5年前に解体してしまったとのことであった。蔵の中はおじい様が新聞を捨てずに全て残していたため、大量の古新聞で蔵が一杯であったとのことから、中のものは全て廃棄したしまったとのことであった。亡きご主人が整理をする予定であったがそれもかなわなかったとのこと。別の蔵には道具類があり、めぼしいものはよけておいたが、当時住まいが別の場所にあったため、翌日戻ってみると廃棄業者が全て持ち去ってしまった後であった、と残念がっておられた。
訪問の理由を再度お話しし、古文書のようなものが別に保管されていなかどうかをお聞きしたところ、居間から風呂敷に包まれた書類を持って来てくれた。ご無礼を承知の上、書類のいくつかを確認させて頂いたところ、明治時代の土地借用書であった。お話しを聞きながら、残りの書類も確認させて戴いたが、江戸期のものは含まれていなかった。その中に明治9年相模国足柄上郡鴨沢村の字引書上写帳があり、中を拝見すると当時鴨沢村で山林を所有していた須藤米三郎氏と共に須藤平蔵という名前が登場したのには驚いたが、年代を考えれば単なる偶然であろう。
もう少し早く古銭に興味をもっていれば蔵が解体される前に訪問できたのではないかと悔やむ次第であった。
図19:須藤平蔵の同姓同名が登場
8.竹見氏が発掘した銅のルツボの所在
竹見氏の記述「筆者はその後中井町の方々の御協力を得て銅を鋳る壺を終に発堀して、その時中井中学校にお預けしてあるが尚今後詳しく調査いたしたい。
その翌日早速携帯に電話がかかってきたが、残念ながら中井中学校の校長、社会科の教師共に、竹見氏の銅を鋳る壺については知らず、中学校にはそのようなものはないとのことであった。
9.夢に終わった調査
ふとしたことから古銭に興味を頂き、地元に縁のある藤沢銭という存在を知ってから、少しずつではありますが数か月にわたる調査を行いました。期待に胸を膨らませながら調査を進めましたが、藤沢銭の謎を解明するには至りませんでした。
調査を行うにあたり沢山の方々のお世話になったことに感謝し、また先人の方々がここ中井町を訪問してくださったことが今回の調査の軌跡になったわけですので、上記報告内容はレールを敷いてくださった先人の方々へのお礼の意味を含めた現状報告とさせて頂くと共に、今後新しい手がかりが見つかった場合には改めて調査報告を再開したいと願う次第であります。
いずれにしましても夢がついえたわけではありませんので、藤沢銭の謎は謎として、地元の方を含めてここ中井町を訪問される観光客の方々にも、ここ足柄上郡藤沢に銭座があったという夢を共有して頂ければ有難く存じます。
(江戸民具街道アシスタント学芸員秋澤傑、一次調査報告完了2018年3月3日)
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参考文献:
・中井町誌
・「新寛永銭鑑識と手引き」小川吉儀著
・「寛永泉譜」藤貞幹著
・「歴史地理」第46巻「湮滅せる相模の鋳銭座遺址」石野 瑛氏著
・「豊泉小論集」川田晋一著
・「中村郷」 竹見龍雄著
・開成町郷土資料
・瀬戸浩平著「古銭その鑑賞と収集」
おもしろ体験博物館江戸民具街道
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0465-81-5339
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