私のあかり論
江戸民具街道自称アシスタント学芸員

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1.はじめに: 

 江戸民具街道は私のおやじがやっている私設の博物館である。私は時折出かけては手伝いをしている。私自身はサラリーマンで、とある製造メーカーに勤めている。昨年TVの取材があるというので出かけた。時計技師の方が展示してある江戸末期の和時計を見に来るというのである。この和時計は金沢にいる母親の親族が持っていたもので、それを譲り受けたものになる。私が車でもらいにいった。片道6時間の運転であった。この時計は加賀藩で使われていたとのことである。どこから情報を得たのか、TV局のカメラマン2名と共に菊野さんという方が千葉からお見えになった。

 独立時計師という職業で、腕時計の制作をしているという。詳しいことはよくわからないが、おやじの足が悪いので私が代わりにアテンドした次第。数時間にわたる撮影の後、JR二宮駅まで車で送り、私は横浜の自宅まで戻った。TV番組はTBSの情熱大陸という番組。お恥ずかしながら、私は一度も視聴したことない。その後放映が今年の1月27日(日)23時にあった。菊野さんが登場。独立時計師というのはすごいなーと感心しながら見ていると、中盤で神奈川県の博物館という紹介で、母親のいとこからもらった和時計が登場!そこになんと私が登場した。時間にして数秒。なんと職員とある。まぁおやじの手伝いだから職員みたいなものだ。

 その二日後に会社で別の部署の方に声を掛けられた。「情熱大陸出てましたか?」びっくりである。ほんの数秒なのに気づく人がいるんだ。しかも日曜日の夜おそくに。すると同じ部署の人にも情報が流れていた。あれやあれや。びっくり。今までおやじの博物館のことは誰にも言っていなかった。(というか言いずらい…。)

 ということで私の会社の方がこのホームページを見に来る可能性もあるため、ここに特別に執筆をすることにした。今まで誰にも語ったことのない私のあかり論(うんちく)である。菊野さんは日本の江戸時代の和時計にインスピレーションを受けて、和のデザインを腕時計に取り込んでおられる。私が勤めている会社は照明に関係する製造メーカーで、私も10年程特殊用途を含むランプの販売に携わってきたが、こちらは最先端の光技術である。私はそれほど光学知識があるわけではないが、あかりの歴史について研究をしてきたこともあり、あかりについてうんちくを語ることにした。このうんちくは相当長くなるが、興味のある方は是非ご覧頂ければと思う。(2019/1/30)

2.あかりとは?

 あかりという言葉は懐古的な言葉である。一般的に使われるようでいて、普段はあまり使うことがない。「電気つけて」といえば照明器具のスイッチを入れることを意味する。「電気つけっぱなしー」といえば電灯の消し忘れである。電気が切れたといえば電球や蛍光管がつかなくなったことを意味する。車のライトをあかりということもない。どのような時にあかりという言葉を使うのか。町のあかり、家のあかりが灯る等、暗くなった屋外からみる照明はあかりという表現になる。なにが違うのであろうか?

 照明文化研究会の諸先輩方からは以下のように教わった。見つめることができるのがあかりである。納得。確かにそうである。照明器具の光源を直接見ることはまずない。大出力でなくとも見つめれば目がちかちかする。それに対して町のあかりは楽しむことができる。観光客は香港や函館の夜景を眺めて楽しむ。家の中では「電気をつける」も外から見れば「家のあかりが灯る」という表現に変わる。「店のあかりが消えているのでもう開いていない」など、このような時には電気とはいわないケースが多いと思われる。海辺の夜景に船が登場すれば船のあかりという。そういえば玄関は比較的ワット数の小さい電球を使うことが多いので玄関のあかりということが多いかもしれない。

 照明器具の光を直接見ることはまずない。日中太陽を無意識の内に見ないようにしているのと同じであろう。太陽を直接見つめれば目が潰れ、下手をすれば失明する。人間がこの世に誕生してから無意識の内に、そして本能的に光を直視しないようにしているのであろう。(2019/2/1)


家のあかり

3.生活の中の照明器具

 照明器具は人になくてはならない存在であるが、前述の通り人間は光を本能的にに避けるようにできているようあり、いったんスイッチを入れればその存在は無意識の内に頭から抜けてしまう。もちろんオフになっている状態の照明器具を見ることもない。でも家の中には照明器具がどこにでもある。私が子供の頃は自分の部屋はなかったが、自分専用の机とデスクライトは持っていた。今でもそうである。結婚した時には家電を買いにいったが、照明器具をどれにするか一生懸命選定した記憶がある。家電屋においてある照明器具は機能重視のものが多く、デザインは無難なありきたりのものが多く、おしゃれなものは少ないような気がするが、そう感じるのは私が照明器具のデザインにこだわりがあるからであろう。

 一般の方々は照明器具のデザインや光の演出を気にされているのであろうか?前述の通り、光は人にとってなくてはならない存在である反面、無意識の内に無視する傾向があるので、一般的には機能さえ問題なければそれで良いのである。私はこだわりがあるので見た目重視の照明器具を求める傾向があり、中でもステンドグラスタイプの照明器具は心がなごむので好きである。もちろんステンドの照明器具は値段が高いので、所有しているのは中古品ばかりであるが、単なるプラスチックカバーの照明器具よりは圧倒的に綺麗である。ただし時がたつと意識から薄れていく。ならば何でも良いのでは?いやいやそこは妥協はできない。なんだか矛盾しているが、それが人間なのであろうか?(2019/2/2)

4. 光とは何か?

 我々が日々目にする光とはなんなのであろうか?そんなこと考える人はほとんどいないのではないか。私自身あかりというものを意識するまでそのようなことを考えたこともなかった。光は影に入れば暗くなり、遠くに行くほど弱く、暗くなる。鏡等の物体にぶつかれば反射する。そして光は貯めておくことができない。光という実態がそこにあるのはわかるのだが、光とはどのような物質なのか?自分なりに色々と調べてみたが、真剣に考え始めると、実態がつかみずらく理解するのが非常に難しい。

 光の説明で一番分かりやすいのが子供が描く太陽であろう。太陽の円から線が何本も出ている。これがいわゆる光束であり、人間の目で感知できる可視光については光の束が多い程、明るくなる。LED電球の箱には全光束がlm(ルーメン)で表示されているが、それである。でもこの光の線の正体は何なのであろうか。光の粒子が同じ方向に連続して飛び続けていると考えるとイメージが付きやすいが、光の粒子そのものが確認されているわけではないようである。光は質量を持たないので、その存在は掴みどころがないようである。

 ただし光という粒子があると考えると光のイメージがしやすい。ではなぜ光の粒子はガラスや紙を透過するのか。金属だと反射する。物質の最低単位の原子とその周りを回る電子の間にはかなり隙間があるらしい。そこを光の粒子が通り抜けると光が透過する。反対に電子が持つ電気エネルギーに引っ張られてしまうと隙間をすり抜けづらくなる、あるいは阻止されてしまう。物によっては光の粒子が跳ね返されてしまう。光の反射や透過はこのようにイメージすると理解しやすいが、私レベルの理解力ではこれが限界である。それ以上突っ込むと理解が追い付かない。ランプの販売に携わったものとしてはお恥ずかしい限りである。(続く2019/2/24)


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